「拉致監禁」による脱会説得は犯罪行為であり、人権蹂躙、心の破壊、家族破壊をもたらします!

2009年02月07日

12年間監禁された後藤徹氏の証言

12年間監禁された後藤徹氏の証言
(私は現在、監禁中に脱会説得にやってきた宮村峻氏を刑事告訴しています。捜査、裁判のことを配慮し、取りあえず、私のインタビューをもとにまとめられた米本和広氏の『我らの不快な隣人』のエピローグを転載します。なお、出版社ならびに筆者の了解は得てあります。一部に記載ミスがありますが、それは訂正してあります。

 なお、読みやすくするため、中見出しは私がつけました。

12年5ヶ月もの監禁で廃用性筋萎縮

 築地の寿司屋で麻子の正社員採用を祝っているとき、私の心の中には、晴れないモヤモヤしたものがあった。

 それは、つい数日前に監禁現場から出てきた後藤徹(四四)の痩せ衰えた姿が、どうしても目にちらついてしまうからだった。麻子がビールを注いでくれると、彼女と年齢がほとんど変わらない後藤のこれまでの体験や、これからの人生のことを考え込んでしまう……。

 統一教会から連絡が入ったのは、麻子が寿司屋を予約してくれた頃、○八年二月一二日のことである。少々、興奮した声だった。

「後藤徹さんという信者が二月一〇日に監禁場所から出てきて、本部に助けを求めてやってきた。一二年五ヶ月間も監禁されていたという。痩せ細っているため、一心病院に緊急入院した」

 とっさに浮かんだのは「新潟少女監禁事件」だった。少女が監禁されていたのは九年。それより三年も長い一二年。にわかには信じられなかったが、すぐに病院に駆けつけた。

 面会室に、後藤は車椅子で入ってきた。車椅子から備えつけの椅子に移ろうとするが、よろけてしまう。一人で立つことができないから、手を取って介添えした。

 身長は一メートル八三センチなのに、体重はわずか三九キロしかないという。

 写真を取りたいから、パンツ一枚になって欲しいと頼んだ。

 時間をかけて服を脱いだ後藤の裸体は、目を背けたくなるほど貧弱な身体つきだった。骨と皮に、申し訳程度にくっついている萎えた筋肉。太ももからからくるぶしまでは、死に行く老人のそれと同じだった。右足の親指は水虫が悪化し変色していた。そのことを聞くと、「家族に何度も薬を買ってきてくれと頼んだけど、無視されたために次第に悪化していったんです」という。

 受け答えはしっかりしていて、私がもっとも心配したPTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状は見られなかった。

 医師の所見によれば、「全身筋力低下,廃用性筋萎縮(特に両下肢)、栄養失調、貧血」

 廃用性筋萎縮とは「筋肉を使わないために筋肉組織が退化して小さく弱くなった状態」のことである。

一回目の拉致監禁は順番待ち

 短時間だったが、事件の概要を教えてもらった。

 主な登場人物は両親、兄(四七)、兄嫁、妹(四一)、それに株式会社タップ社長の宮村峻、新津福音キリスト教会の牧師松永堡智である。兄、兄嫁、妹の三人はいずれも元信者で、兄は宮村峻、兄嫁は宮村と松永の強制説得を受けている。兄は脱会後、宮村のタップに就職し、○一年には弁護士の山口広や紀藤正樹たちが代理人となった「東京・青春を返せ裁判」を提起している。

 以下の事実経過は、後藤徹の一人称で綴ることにする。括弧内は私の補足説明である。

 私は、八六年に兄の勧誘によって統一教会に入信した。大学四年生のときだ。八七年に日本大学理工学部建築学科を卒業し、大成建設に入社した。

 一回目の監禁は八七年一〇月のことだった。

 音信不通となっていた兄から連絡があり、京王プラザホテルの一室に入ったところ、監禁された。そのあと、宮村峻が元統一教会信者を数人連れて部屋に来るようになり、脱会説得を受けた(『「脱会屋」の全て』の著者、鳥海豊と同じパターンである)。

 兄の後日の話によると、宮村の説得を希望する信者家族は大勢いて、順番待ちリストの最後尾は数百番目。兄はタップの社員であり、熱心に宮村の脱会説得活動を手助けしていたため、説得の順番を早めてくれたという。

 偽装脱会を装い、一一月下旬頃、荻窪栄光教会の日曜礼拝に参加したとき、トィレに行く振りをして教会から脱出した。

 無届け欠勤していた大成建設は、辞めざるを得なかった。会社に頭を下げて復職しても、再度家族から拉致されるかも知れないという恐怖心もあった。

 八八年末には、妹が拉致監禁され、脱会した。

 私は、桜田淳子や山崎浩子の参加が話題となっていた九二年の合同結婚式に参加した。しかし結婚相手の日本人女性はソウルから帰国後、脱会説得を受けて信仰を失い、結婚生活に入ることができなかった。

 九三年、兄が結婚した。兄嫁は宮村と松永から脱会説得を受けた元信者で、「新潟・青春を返せ裁判」を提起した一人だった(『人さらいからの脱出』の著者、小出浩久は偽装脱会中に「新潟・青春を返せ裁判」の集会に参加している。おそらく、後藤の兄嫁とも会ったことがあるだろう)。

 九五年八月、ソウルで行われた国際合同結婚式に参加した。

 しかし、九月に二回目の監禁に遭い、結婚生活を始めることはできなかった。

西東京市から新潟そして荻窪へ

 九五年九月一一日の夜、保谷市(現、西東京市)の自宅に帰宅したところを、両親、兄、また庭に潜んでいた見知らぬ男性らによって四方八方を囲まれ、左右両脇を抱えられ抵抗できない状態にされて、ワゴン車に連れ込まれた。後日判ったことだが、見知らぬ男性は、宮村が経営していた「タップ」の社員(元信者)だった。

 監禁場所は、新潟のマンションだった(後藤の拉致は、麻子が早稲田通りで拉致される二ヶ月前の話である)。

 保谷市から新潟に運ばれるときは、トイレに行かせてもらえず、家族から渡されたビニール製の携帯用簡易トイレで用を足さざるを得なかった。屈辱的だった。

 新潟のマンションには両親、兄嫁、妹が一緒に住み、兄は東京で働いていたため、休みの日にやってきた。兄は私にこう宣言した。

「言っておくが、この問題は絶対に許さんからな。この問題を解決するまでは絶対に妥協しないし、この環境もこのままだ。我々はどんな犠牲を払っても決着をつける。お前もそれは、覚悟しておけ」

 兄の言葉は単なる上辺だけのものではなかった。

 新潟時代には兄と兄嫁は別居、一二年間監禁生活を共にした妹はいまだ独身だ。「どんな犠牲を払っても」という兄の言葉は嘘ではなかった。

 監禁説得にやってきたのは、新津キリスト教会の松永堡智だった。

 九六年、父は入院し、心臓のバイパス手術を受けた。父が癌で亡くなったのは、監禁から二年後の九七年六月のことだ。享年六五歳だった。

 保谷市の自宅の通夜に参加したあと、今度は東京荻窪のマンションに移動させられた。このマンションには半年間いただけで、九七年一二月に移った「荻窪フラワーホール」の八〇四号室で、母、兄、兄嫁、妹から監視される新たな一〇年間に及ぶ監禁生活が始まった。

 私は一番奥のベランダに面した部屋に連れて行かれ、普段はそこに居るように、部屋の襖は常に開放したままにするようにと宣告された。一度、玄関から脱出が可能かどうか確認しようと、玄関が見える位置まで行ったことがある。玄関は内側からクサリと南京錠で開かないようにされていた。兄は「シッ、シッ」と言って手の甲を私の方に向けて振り、私を奥の部屋に追いやった。

 私は人間扱いされていないと感じて、「これじゃまるで犬扱いじゃないか。俺は人間だぞ!」と言って抗議した。

 脱出を試みたことがあるが、兄から足技を掛けられて倒され、取り押さえられてしまった。

青春を返せ裁判の原告も登場

 翌年の九八年一月頃から、宮村峻が元信者を引き連れてやってくるようになった。いずれも宮村が強制説得した元信者だった。自宅で拉致されたときに庭に潜んでいた宮村の会社の社員もやってきた。

 宮村と元信者たちは、あらゆる非難、中傷、罵倒を浴びせかけ、何度も「バカ」「アホ」と私を侮辱した。「これは監禁だ、人権侵害だ」と何度も抗議したが、そのたびに宮村は怒鳴り返してきた。

「えらそうなことを言うな。お前に人権を主張する資格などない」

「俺はお前を監禁なんかしてない。家族が保護しているんだ。出してもらいたければ家族に言え」

「自分の頭で考えられるようになるまではここから出られないぞ」

「もし自分の子どもが統一教会を辞めなければ、俺は家に座敷牢を作って死ぬまで閉じこめておく」

 元信者の高森洋子(仮名)は、あぐらをかいて座り、タバコを吹かしながら、「卑怯者、あの時あんた逃げたでしょ!」と怒鳴り、四谷景子(仮名)は私が話をしているときに、突然、出されていた緑茶を私の顔面に浴びせた。〈注一〉

 兄は、私を糾弾している最中に急に立ち上がり、「本当ならぶん殴って半殺しにしてやるところだ!」と絶叫し、妹は「こんな調子だったら永遠にこのままだから覚悟して」と脅迫めいたことを口にした。

 私は〈もういっそのこと死んでしまいたい〉と思った。

 彼らの統一教会批判に、私が具体的に反論すると、いつもきまって「お前は全然人の話を聞いていない」「自分の頭でよく考えろ」監禁中、何百回この言葉を聞かされたかわからない。「聞いている」「自分で考えている」とその度に反論するけど、彼らは「いや、聞いていない」「考えていない」と言って頑として受け入れない。結局のところ、彼らの言う「聞いていない」「自分の頭で考えろ」の意味は、〈俺たちが言う統一教会批判を全然聞き入れようとしない。自分の頭で考えているんだったら、統一教会信仰の間違いに気がつくはずだ〉ということだ。

 宮村が来るたびに、私は『原理講論』に「正」の字を書いて回数を記録したが、合計で七三回だった。

 こんなことがあった。宮村が来たとき、私は風呂場に入って「監禁だ!」と言って叫び続けた。すると宮村は、風呂場に入ってきて私の首の後ろの襟を掴み、私を風呂場から引きずり出した。

 一年ぐらい経ってから、宮村たちは顔を見せなくなった。〈注二〉

長く続いた家族だけの監禁生活

 宮村が姿が見せなくなっても、監禁は続き、家族だけでの説得は続いた。

 九九年一二月、私は世の中のことが分からないまま年月が経過していくことに激しい不安感を感じ、家族に対し、『現代用語の基礎知識』を持ってくるよう要求した。ところが、この要求を拒否されたため、家族等との間で激しい言い合いとなった。私が激怒して、「畜生、出てやる、ここから飛び降りてやる」と、奥の部屋の窓に突進した。窓の内側の障子が破れ、障子のサンが折れた。これに家族は怯んだのか、翌年の一月、『現代用語の基礎知識』を持ってきた。また、この頃から産経新聞を私に支給するようになった。『現代用語の基礎知識』や産経新聞により世の中の情報を知れば知るほど、私はマンションの一室に監禁された状態で世の中から取り残されていくことに、極度の不安を感じるようになった。

 ○一年二月になると、私は〈このままでは、世の中から隔絶されたまま一生ここから出られない〉との押さえがたい不安感に襲われ、玄関目がけて突進し、脱出を試みるようになった。あらん限りの力を尽くしたが、家族から取り押さえられてしまう。私は大声で「出せ」「助けてくれー」「警察を呼べ」と叫んだ。そのたびに、家族は布団で私をくるみ、口を押さえつけた。息が出来なくなり、窒息しそうになった。

 長期間の監禁によって、ほとんど運動する機会がなかったため、兄と一対一で揉み合いになっても、いつも取り押さえられ、羽交い締めにされた。何度も揉み合いになった。私の顔や手足から出血して血だらけになり、着ていた上着はボロボロに破かれてしまった。出血は畳にもしたたり落ち、私はタオルで手や畳を拭いた。夜は体中が痛み、寝ることができなかった。

 こうした揉み合いによって、多くの家具が損傷した。台所の棚は変形し、アコーディオンカーテンが破れた。家族は、私の抗議行動に危機感を感じたらしく、私が抗議行動を起こすと玄関と部屋の間の木戸を施錠し、開閉できないようにした。

 私はいつしか脱出を諦めた。家族も私を説得しなくなった。しかし、監禁から解放されることはなかった。解放した場合、私が彼らを訴えることを恐れたためだと思う。私が「弁護士を立てて訴えてやるからな!」「そっちが犯罪者になるぞ!」と言って彼らを糾弾したことが、彼らにとっては相当の脅威となったようだ。家族は宮村の指示を仰ぎ、口封じのために私を監禁し続けたのだと思う。

ハンガーストライキと家族の狂気

 〇四年の四月、二一日間のハンガーストライキを決行した。

「もう八年だぞ! 当時生まれた人間はもう小学二年生だ。こんなに閉じこめて人権侵害だ!」

「三〇代というのは人生で最も気力体力が充実している時だ。それを社会から隔絶された所に閉じこめられてまるまる奪われたんだぞ。どうしてくれるんだ」「いったい何回、選挙権を奪ったと思っているんだ!」と抗議した。

 しかし、家族は意に介するようなことはなく、私を批難する兄嫁は次第に興奮して半狂乱になると、畳に座っていた私の目の前に正面から正座して座り、全身の力を振り絞って平手打ちで思いっきり私の顔を叩いた。何度も、何度も――。

 ハンガーストライキも後半になると体はフラフラになり、歩くのも身動きするのも大変になったため、横になることが多くなった。トイレに行くのも大変で、立って用を足すことができなくなった。

 二回目のハンストは〇五年四月、三回目のハンストは〇六年四月に行なった。家族は私の反抗に腹を立てたのか、三〇日間の三回目のハンストが終わってからは、食事らしき食事をさせてくれないようになった。私は家族等の目を盗んでは、炊飯前の水に浸してある生米を少しずつ抜き取って食べ、餓死を免れた。家族がここまでやるとは本当に予想外だった。

 その後、食事は少しまともになったものの、家族は普通の食事だったのに、私には粗末な食事しか出されなかった。朝はパン一枚に飲物一杯。昼はご飯一杯、味噌汁一杯、のり四枚、漬け物と小魚少々、梅干し。夜はご飯一杯、味噌汁一杯、漬け物、小エビ、納豆が定番だった。兄嫁は、私に出した粗末な食事を指して、「ものすごく豪華な食事だ」とからかい、私を人間扱いしなかった。

 妹と揉み合いになり、妹が両手で私の胸辺りを強く押して突き飛ばされたことがある。私は身体がよろけて数歩後退し、背中から食器棚にぶつかった。私の体力はこの程度までになっていた。

 〇七年一一月頃になると、兄嫁は私に対して、「あんたこの部屋を維持するのにどれだけお金がかかっていると思っているの」「部屋を出るとき、あんたが壊したこの部屋を全部リフォームしないといけないのよ」と文句を言うようになった。働いているのは兄だけで、経済的にかなり苦しくなりつつあるようだった。

無一文での追放

 ○八年二月一〇日の午後四時頃のことだ。兄夫婦、母、妹の四人が突然、「統一教会の間違いを検証する気がないんだったら即刻出て行け!」と私に命令してきた。

「一二年間も監禁しておいて無一文で追い出すなんて酷いじゃないか!」と喚いたが、結局、家族によって力づくで追い出されてしまった。

 玄関の外で倒れている私に、革靴を投げつけてきた。

 家族の精神も肉体も経済も限界に達したのだと思う。

 自由の身になれたとはいうものの、体力的に衰弱した中、所持品も着替えもなく、かつての知り合いがどこにいるかも分からない中で、〈一体、これからどうやって生きていったらいいのか〉という不安が襲ってきた。

 渋谷の統一教会本部に向かうしかなかった。青梅街道から新宿方面に歩き始めてから四時間ぐらいしたところで力尽きてしまった。通行人に頭を下げて、お金をもらった。タクシーに乗って、何とか本部教会に辿り着くことができた。

 本部教会で夜間受付の男性に事情を説明したところ、一二年間監禁されていたという話はにわかに信じてもらえなかった。〈注三〉

 麻子からビールを注がれながら、後藤徹が監禁されていた一二年五ヶ月という途方もない歳月を考えてしまう。

 麻子にとってもこの一〇年は苦しみの日々だった。しかし両親、続いて親戚も拉致監禁が間違っていたと麻子に謝罪し、親子はひとつ屋根の下で暮せるようになった。そして社会復帰をようやくにして果たした。それも会社から正社員として採用されたのだ。

「だんだん拉致監禁のことに関心が向かわなくなりつつあります」と話すにこやかな麻子を目にすると心が和むが、しばらくすると、また後藤のことが頭をよぎる。

 麻子にとっての「終わり」は、後藤にとっては「始まり」である。これから、人生の一番いい時期を無駄に過ごした拉致監禁体験と、後藤は向き合うことになる。〈注四〉

〈一体、これからどうやって生きていったらいいのか〉という後藤の言葉が耳をついて離れない。

 後藤から話を聞いたあと、荻窪に出向き、「荻窪フラワーホーム」の場所を確認した。天沼陸橋のすぐそばにある古びた細長いマンションだった。

 外から眺めると、八〇四号室の窓は開放され、布団やタオルケットなどが日干しにされていた。

 晴れ渡った青空のもと、後藤の気持ちをよそに、布団やタオルケットは風になびき、ようやく解放されたが如く自由に揺れていた。


〈注一〉あとで調べてみると、後藤が話した高森と四谷は後藤の兄とともに「東京・青春を返せ裁判」を訴えた原告だった。「青春を返せ」と統一教会を訴えながら、一人の青年の青春を奪ってしまう。皮肉な話である。高森洋子は、鳥海豊や小出浩久の脱会説得現場にも登場した。

〈注二〉後藤は、宮村が来なくなった理由はよくわからないという。以下は、私の推測である。九九年一月に今利理絵、二月にアントール美津子、五月に富澤裕子が牧師たちを相手に提訴した。前の二件は日本基督教団の牧師を相手にしたものだが、裕子が提訴したのは神戸真教会牧師の高澤守だった。第一〇章で触れたように宮村と高澤は近しい関係にあり、裕子の監禁されていた神戸のマンションにわざわざ東京から二人の元信者を連れて、裕子の説得に出向いていた。後藤徹の脱会説得の最中、九八年の三月九日のことである。宮村は〈このまま脱会説得を続け、もし後藤徹が脱出したりすれば、今度は自分が訴えられる〉と考え、怖くなったのではないか。とはいえ、後藤を解放するわけにはいかない。そのため家族には、このまま監禁を続け、家族たちで説得するように指示したのではないかと思われる。

〈注三〉後藤の話を聞いたあと、宮村の自宅を確認していると、偶然にも宮村本人が姿を現した。小柄で白髪まじりの、年齢相応(六三歳)の初老の男で、これといった特徴のない人物だった。質問にはときおり眼光鋭く答えた。立ち話でのインタビューの詳細は省略するが、後藤徹の説得に出向いたのは、「数年前に一年間か一年半だ」と正直に答えた。「緊急入院となった後藤さんを見舞ったけど、一人で立ち上がることができないほど痩せ細っていた。可哀相な感じがした」と水を向けると、宮村は顔色ひとつ変えることなく、平然とこうもらした。

「後藤が断食なんかするからだよ」私は質問で断食のことは話していない。それなのに、宮村は断食のことを知っていた。家族から後藤徹の様子について、逐一報告を受けていたということの証左であろう。話はそれるが、私は宮村と一緒にやってきてきたという高森洋子(仮名)のことが気になっていた。信頼できる筋から、「全国弁連」の事務局員をしているSという女性(私は二度会っている)と同一人物だと聞いていたからだ。裏を取ることができないでいたため、宮村に思い切って、問い質してみた。すると拍子抜けするほど悪びれることなく、「ああ、そうだ」と認めた。もし宮村の答えが正しければ、高森洋子は「全国弁連」の事務局員をしながら(いつ事務局員になったかは不明だが)、東京地裁に通い、そして監禁場所に出向いていた。水面下と水面上を行き来する人物ということになる。ちなみに、高森が住んでいるマンションは、後藤が監禁されていた「荻窪フラワーホール」から歩いて五、六分、宮村の自宅からはやはり歩いて二〇分弱のところにあった。

〈注四〉後藤はその後、荻窪警察署に「刑法第二二〇条の逮捕監禁罪、第二二一条の逮捕監禁致傷罪、第二二三条の強要未遂罪に該当するもの」として、宮村、松永、母、兄、兄嫁、妹を刑事告訴した。荻窪警察署や検察がどう動くかは興味深い。九年間に及ぶ「新潟少女監禁事件」の犯人は、懲役一四年の実刑判決を受けている。親兄弟が監禁した場合は、監禁が一二年五ヶ月間に及んでいても、富澤や元木の刑事告訴と同じようにまた「起訴猶予処分」とするのだろうか。もしそうなら、親は自分の思い通りの子どもに育てるために監禁してもよいことを国家が認めたことになる。そうなれば、パターナリストの親にとっては「福音」となる。